東京カリタスの家 50周年記念ミサ説教
9月20日(金)東京カテドラル 司式:岡田武夫名誉大司教
【福音朗読 ルカによる福音書 15:1-32】
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
【説教の全文】
今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。
第一の譬えは、失われた羊を羊飼いが探し出して喜んでその羊を担いで帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。第二の譬えも、銀貨を一枚なくして女性が必死で探し出し、友達や近所の女たちを呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。家を出て行った息子が帰ってきたので父親は祝宴を開いて喜び祝いました。
三つの話に共通している教えは失われた者、存在が、すなわち、失われた羊、銀貨、息子がともに、かけがえのない大切な存在であるという点にあります。見つけ出した人には大きな喜びがあり、その喜びはあまりにも大きいので、一人自分だけに留めておくことが出来ず、周りの人々を呼んで一緒に喜び祝うほどでありました。
放蕩息子の話を振り返ってみましょう。
二人の息子のなかで弟の方が父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。
この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬」と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味です。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、探し回り、とある所に新たに家をかまえた父親でありました。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかったのです。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。
ルカの15章の譬話は対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。
この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。仏教の話の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、示しがきかないと、普通は思うでしょう。―――兄の方の態度がわたしたちには分かりやすい。もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれません。しかし神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。
神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか? わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?
立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれ、の事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。
東京カリタスの家の仕事とは神のカリタスを実行することですが、神のカリタスとは何より神の慈しみの実行です。ひとり一人の存在がかけがえのない大切な存在であるということを分かってもらえるように努めることです。ひとり一人をそのまま受け入れ、その人が、自分はかけがえのない大切な宝である、ということを分かるようになるよう、その人を助けることではないか、と思うのであります。
これは易しくはない仕事ではないだろうか。忍耐、努力、助け合い、たえざる研修と反省が必要でしょう。